『「学校」をつくり直す』苫野一徳 を読んだ。
中心的な主張の部分では賛成である。
「みんなで同じことを同じペースで学ぶ」という学校のシステムは、ほぼ限界にきている。
だからこそ、先日のニュースでも流れたように特別支援学級の在籍児童が過去最多となったということも事実としてある。
しかし、この本で述べられているようなプロジェクト型学習、探究型学習を公立の一小学校でやるというのはハードルが高い。
もちろん、個人レベルではできることがたくさんある。
プロジェクト型、探究型を意識して、教科書とノートをフル活用しながら授業を進めていく。
これはある程度の技量がある教師ならできる。
また、討論の授業を目指すというのも、この本の主張に近い。
向山型指名なし討論と、評論文指導ならば、それぞれの子どもが自分のペースで自分なりの道で学習を積み上げていく。
プロジェクト型、探究型と同質のものである。
しかし、計算をきっちりとできるようにすることも大事。漢字指導もしっかりとする。
教室を統率していくことも教師としては大事な仕事だ。
だから、この本の半分の主張は受け入れ、自分の実践に生かしていく。
しかし、もう半分の主張は反面教師として生かしていく。
今の学校のシステムでは、この本の主張をすべてやっていこうというは到底無理だ。
教師が無理をして、身体をこわしてしまう。
あるいは、理想だけが高く、空回りして、学級をこわしてしまう。
自分の経験則から考えると、そうなるように思う。
同じく、SNSでも、隣の学級の先生が崩れそうになって、夜遅くまでフォローしている先生の話を読んだ。
この先生の努力、温かい心は素晴らしいとは思う。
しかし、見方を変えれば、また違ってくる。
この先生が独身ならばまだいい。
自分の時間を自分が好きなように使える。
しかし、長時間労働によって身体や精神を壊してしまう危険はある。
自分の趣味・自分の人生の時間を削ってまでやることではないとは思う。
仮にこの先生に子どもがいたり、家庭があったりすると考える。
その場合、毎日、隣の学級の先生のために9時帰りだと、その先生の家族に大きな負担がかかる。
子どもたちは寂しい思いをして家で待っている。
家族の時間が削られる。
人間らしい生活を送れない。
結局のところ、一教師としてできることには当然限界がある。
そのような見切りと見極めをしっかりとすることが大事である。
他者の課題は他者に任せるしかないのである。
自分の課題にしっかりと集中するべきなのである。
勤務時間内で全力を尽くす。
勤務時間内の自分にできる範囲で隣の先生のサポートもする。
できないことはやらない。管理職に任せる。
無理はしない。
このような見切りと見極めをしっかりしていきたい。